篠田鉱造

篠田鉱造の著作は、岩波文庫に、
幕末百話(昭和四年)
明治百話(昭和六年)
幕末明治女百話(昭和七年)
があり、
銀座百話(昭和十二年)
明治開化綺談(昭和十八年・二十二年)
が角川選書に入っているが、
銀座・築地物語絵巻(昭和十六年)
明治新聞綺談(昭和十八年・二十二年)
は文庫化・選書化されていないようだ。
これらの本の特徴は、
実話聴取
であり、
私は実話は実話でも、実話聴取と同時に、その気分を取入れないものは、実話でないという主義です。
と『明治百話』の「私の実話主義」で述べている。
銀座・築地物語絵巻(昭和十六年)
では、話者の名が明らかにされているものが多いが、その他のものは話者表記が少なく、誰の話なのか分からないものも多い。

中込重明「近代文学史と笑い 骨皮道人の著作群を例に」(『笑いと創造』第三集。平成十五年)〈後に『明治文芸と薔薇』所収〉には、
洒落や諧謔を好むのは、生き残った生粋の江戸文人の誇りであったと、篠田鉱造は『明治百話』(昭和六年)のなかで言ってる。文人たちが、文明開化にともなう西洋風の風潮に反抗するかのように「洒落気」を好んでいた。「三、四人集まると、口上茶番だとか、即席三題噺だとか、ソレは洒落ノメしたものです。江戸伝来の型があって、洒落であって真剣なもの」(岩波文庫本)であり、洒落が理解できないと、知識人でも馬鹿にされたとある。〈中略〉そして、篠田は「マアあの時代(明治三十年頃まで)は、洒落ッ気の世の中でした」と結んでいる。
とあるが、
『明治百話』所収「洒落ッ気の世の中」は、当然聞き書きであり、篠田鉱造の直話ではなく、篠田鉱造が自分の意見を述べたものでもない。江戸っ子の誰かさんの話を聞いた篠田鉱造が、その口吻・精神を尊重し、生き生きと書き綴ったものなのである。

以下、「洒落ッ気の世の中」の頭の部分を記す。
明治へ江戸の匂いを伝えていたものは、何といっても『洒落ッ気』ということでした。どういうのが洒落ッ気かというのに、政治だ経済だ、勘定だソロバンだという世の中の面倒臭さをヌキにして浮世を三分五厘で、洒落に過すという駘蕩のない方からいったら、大関株で、洒落た方からいったらオツでげすという奴なんで、どっちしたからといって、人間僅か五十年、威張ったって笑ったって、ソレから泣いたって怒ったって、隠坊の鍬の尖じゃアねえかといった、辛抱人から聞かれたら、「こいつら極道者め」と、一ト口に言われるが、洒落とのんきに、気苦労なしに、面白おかしく暮せたら、こんないい商売はあんめい。ナゼじたばたと利慾にあせり、名声に囚われているンだろう。子孫のため財産を残すなんて、馬鹿々々しいものサ、睾丸二つ与えてやったら、自分でまた家を興し名を成すがいいじゃあねえかと、こうした阿父さんを持った子供らは仕合せかどうかは別として、そうしたのんきさが『洒落ッ気』といって、江戸の文化文政度から、明治の初年に伝わり文明開化の欧米風に反抗したものでした。反抗したというと、大袈裟ですが、なろうことならチョン髷あたまに、上下でもつけて、こうしたのんきな旧幕の風俗を、形式にも精神にも維持しようとしたことが、私どもはハッキリと眼に残っています。
その『洒落ッ気』が残した文献は沢山ありますが、まずこうした人々は寄ると障ると、洒落文学になって、三、四人集まると、口上茶番だとか、即席三題噺だとか、ソレは洒落ノメしたものです。江戸伝来の型があって、洒落であって真剣なものでした。『洒落が一つ解らねエ玉』といって。相当学問あり、智識階級の人物であって、洒落が解らないと、糞味噌にあびせかけて馬鹿にしたものです。そのかわりこの仲間に入ったら、三馬一九の洒落本の暗誦ぐらいしていないと、飛んだ恥を掻いてしまいます。なかなか高級の洒落があって、解釈に骨が折れました。和漢の文学、滑稽、逸話珍話に通暁していないと、お相手が出来ない。洒落ッ気もまた哲学の一つで、そう馬鹿にしたものでもないんです。『口上茶番』が随分流行りまして、十人寄れば「サア口上茶番だお作んなせい」といわれ、苦労したものです。
〈以下、略〉